命名者は当社二代目社長の山崎幸一です。うなぎパイが誕生した昭和36年は高度経済成長の真っ只中。その成長期において女性も社会に働きに出るようになり、子供たちも学校・塾など・・・皆が家にいる時間が少なくなりはじめていたようです。そんな中、夜の夕食だけは家族の集まる団らんのひとときとして大切にされていた時間でした。そんなひとときに「うなぎパイ」を囲んで楽しいひとときをすごしてもらいたいと命名されたのが「夜のお菓子」です。ただ、実際には違う解釈もして買っていく方も多いようです。
当社は創業明治二十年の老舗菓子店でその創業の歴史の中には「甘納豆」「知也保(ちゃぼ)」などの銘菓がありました。しかし、二代目社長の幸一はそれを超える新しい浜松ならではのお菓子をつくりたいと日々思案していたようです。そんな中、とある旅先でこんな会話がありました。
旅先の方「どこからいらっしゃったんですか?」
幸一「浜松ですよ」
旅先の方「え?どこですか??」
幸一「あー浜名湖の近くなんですが・・・」
旅先の方「あ、うなぎのおいしいとこですよね?」
この会話をしたときに、浜松はまだ知名度がなく、浜名湖の方が有名。そしてこの辺りといったら「うなぎ」しかない。とひらめき思い立ったようです。旅先から帰った幸一社長は当時の職人を集め「うなぎ」をテーマにした創作菓子をつくるように指示をしたそうです。そのなかで当時まだ珍しかった洋風煎餅・・・いわゆるパイ菓子が得意なものがおり、そこから誕生したのが「うなぎパイ」です。
ガーリックですが、試作段階の「うなぎパイ」において今ひとつおいしさに深みがないと職人たちが悩んでいたそうです。
そこに幸一社長が当時ブームだった「餃子」をヒントにガーリックを少し使ってみたらどうか?と提案し、生臭さを消すための工夫をし使用したところ、あのうなぎパイの深みのある癖になるおいしさになったそうです。
昭和36年の発売当初は「青色」のパッケージでした。しかし、お客様の反応はあまり芳しくなく・・・パッケージの改良を検討しました。そのとき「夜の菓子」のコピーを勘違いしてお買い求めなる方が多かったため、いっそのことならと・・・当時の「マムシドリンク」のカラー配色を参考にパッケージをしたところ、コレが大当たり!爆発的売上のきっかけとなりました。
当初は形状でもよりリアルな「うなぎ」を表現しようと試作を繰り返しました。例えば、「蒲焼」をイメージしていくつか重ねて串に刺してみたら、串が抜けなくて食べることができなかったり・・・。「うなぎ」をイメージして先の方をひねってみたら・・・美味しく焼けなかったり・・・ 。と、どれも上手になりませんでした。そして最終的にご存知のいまの「うなぎパイ」の形状に落ち着いたのです。